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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上1-3

まやかしの月 創作小説

1-3.Lacunar Amnesia:部分健忘症

 記憶がないというよりは、物忘れで説明がつかないほど忘れっぽいというべきか。

 人は元々物事を忘れる生き物だ。普通の人も昨日の夕食を始め、身の回りにあったことで正確に覚えていることはほとんどないだろう。しかしそういう物忘れとは違うのだ。僕には当然あるはずの記憶がない部分があった。大体のことは途切れずに覚えているのに、ある一定の時期の記憶が、虫食いのように欠落し、しかも忘れていることさえ忘れているのだ。

 美玲という人の件以外にも、例えばまず東郷の存在のことがある。彼のことなど知らず暮らしていたある日に、いきなり僕と友人だったのだ、と東郷の口から聞かされた。異様なことに、僕は東郷のことを忘れていた。

 彼は目下、僕の記憶のないことを知っている唯一の友人であり、何の事情も知らないクラスメイトと話すとき、フォローさえしてくれる。

 下校途中の道でそんなことを考えているうちに、家の前に着いた。

 こんな時間なのに、玄関には明かりも点いていない。

 すりガラスになった居間の戸を開ける。薄暗い部屋の中ですすり泣く声が聞こえた。ぱちり、と電灯を点ける、革張りのソファーの上で膝を抱え、泣く母がいた。

 すぐに駆け寄っていく。心の片隅で、またいつものことだと思いながら。

 耳を寄せると、小さな呟きが聞こえる。

「――許さないわ。もうこんな生活耐えられない」

「どうしたの。何かあったの、母さん」

「律人――」

 濡れた瞳が僕を認めて、鋭く光った。

 その瞬間、凄まじい力で制服の裾を引っ張られた。それに任せて僕は床にくずおれて、フローリングに足を崩す母と目を合わせた。

「あなたもあの人を恨んでいるわよね?」

 ――〝あの人〟とは、僕の父らしかった。

 らしい、というのは、僕はそれに関する記憶もないからだ。

 僕の父は、いわゆる〝蒸発〟のようだった。だから僕は、独身の母と二人きりで暮らしている。

 彼女は美大出身で、彼女があの人と呼ぶ男性とは、在学中に出会ったそうだ。他にも彼が好きだった食べ物や芸術家のことを、何度繰り返し教えられたか分からない。ただ分かるのは、このように乱れるくらい母がその男性を愛していたということだ。

 彼女はずっと恨みに思って泣いているけれど、僕には例の現象で幼少の記憶がないから、彼女の言うあの人を、具体的にどんな人物かを思い描けない。

 家に父親のいない日々はしばらく続いているが、母はよく発作的に何かを思い出しては嘆いていた。

 この様子では仕事も出来ないが、母の大学時代の友人だという人たちが何かと生活の世話をしたり、遊びに連れ出したりしてくれる。彼女は可愛がられてきたのだろう。彼らが言うに、母はみんなの妹みたいな感じらしく、息子の僕もあまり複雑な気持ちはない。人を惹きつけずにはおれない不思議な魅力を持っているようだった。

 ショックから立ち直れないようで、家事も基本的にやらないので、それは僕の仕事だった。別に苦だとは思っていない。心の傷を癒す過程だと思って、ここまで育ててくれた母に楽をしてほしいと願うばかりだ。

 ふと壁を見上げると、ある一定の時刻を指したまま動きを止めてしまった時計があった。ガラスの表面が蜘蛛の巣のようにひび割れている。僕は何事もなかったかのように視線を戻す。

「母さん、今日は何にしようか。僕が作るから、ゆっくり休んでて」立ち上がりかける。

「一緒にいて。律人まで私を捨てるの?」

「……分かった」

 突然腕を引かれ驚いてしまったが、仕方ないという風に、もう一度床に膝をつく。

 安心させるように抱きしめた彼女の頭は今ではもう小さくて、僕の胸に容易く収まってしまう。

 僕に出来ることといえば、こうやって抱きしめるだけ。子供の頃から彼女がこうやって泣いているのを、何も出来ずに見ているしかなかった。

 嗚咽が漏れ聞こえる。

 僕には彼女が彼を愛しているのか、憎んでいるのか、よく分からない。

 あるときは根拠もなくあの人が帰ってくると言って、手をかけた料理を作って待ち、勝手に希望を持って絶望する。来ないと自分で分かっているのに。

 ――忘れたなんて、絶対に言えない。

 それこそ無責任だ。だから僕は形だけでも、母と僕を捨てた見知らぬ男への憎しみを、心の内に燃やし続けていなければいけなかった。――自分でも無意味だとは分かっている。

 明後日の方向に向いた意識が引き戻される。

「律人はあの人みたいな、無責任な人間にならないでね」

 ぽつりと呟く言葉に、僕は曖昧に笑ってもちろん、と言った。