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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上1-2

1-2.Painted High School:壁画のある学校

 五月十六日、月曜日。

 僕が通うこの学校は、路加学園高等学校といった。

 プロテスタントを教えている、いわゆるミッション系の学校であるが、生徒がクリスチャンばかりなのか、といえばそうでもなく、受験生からは歴史のある私立の進学校の一つ、というような位置づけで認知されている。特色といえば、土足で入ることを許されていること。制服が高校では珍しい、古風な学ランとセーラー服であること。そうはいっても、これだけ見ればまだ至って普通の高校だ。

 教室の自分の席について、窓越しに外を眺めた。路加高校と他の高校とを異にするものがそこにはある。

 校舎や体育館の壁に、色とりどりのペンキで絵が描かれている。それはストリートアートなどの落書きというよりは、壁画と呼べる類のものだった。

 この学校は普通科高校でありながら、美大の進学率が高い。というのも、正門と道を挟んだ向かい側に美大が位置しており、芸術との親和性が高いのだ。ある一教諭から始まり、美術部や、卒業を記念して三年生が、校舎をキャンバスに絵を描くのが伝統になって、今では少し廊下を歩くだけで鮮やかな壁画を目にすることが出来た。入学当初は落ち着かなかったものの、一年と半年が経とうとする今では慣れて日常の光景だ。

 ここは壁画のある学校だった。これは全国例のないものだと思う。

「――おい律人、聞いてるか?」

「ん…………何?」

 ぼんやりと思考をめぐらしていると、友人の東郷瑛良が話しかけてきて、僕は思わず目をしばたたかせた。

 髪を茶色に染め、カラフルなピンで前髪を留めた、都会的で軽そうな容姿の少年。中身も大体そんな感じでいいと思う。小柄だが筋肉質で、休み時間になるとどこからかふらりと現れては、空いた誰かの席を占領して、僕と世間話を交わしていく。

「だから、教育実習生だよ」

 五月下旬の月曜日のことだった。

 中間考査も終わり、この学校には今日から二週間、春の教育実習生が来ることになっていた。僕のクラスに所属する大学生はいないが、早くも他のクラスから、彼らについての情報が飛び交っているようだ。

 どこそこのクラスの女の先生が美人だ、とかそういう感じだろう。平凡な高校生男子として一般的な程度には気になるくらいだが、あまり騒ぎ立てたいとも思わない。

「美術の実習生が、男だけど何か、滅茶苦茶美人だって騒がれてる奴なんだけど。……って、何言ってっか分かんねえな。男に美人って言うとか認めん、邪道だ」

 東郷は何かぶつぶつと一人で呟いている。僕は少し笑った。

 いい意味で頭の悪そうな言動が目立つ。それを含め、この友人には愛嬌がある。

「そうそう、美玲が好きそうな顔の奴だな」

「ミレイ?」

 知らない名前が出てきて、僕は首を傾げる。本当に聞いたことのない名前だ。どうせきっと、知らないところで恋人でも出来たのだろうけれど。それなら知っていなくても無理はない。

「新しい彼女さん? 本当にすぐに変わるよね」咎める意図はなく、からかうように指摘する。

「は? だから美玲だ……あ、ごめ、ん……」

 彼の顔がどんどん苦くなっていく。

 それはまるで、地雷を踏んだと焦るような、そういうばつの悪そうな表情。それを見て僕までも感染したように気まずくなる。

 東郷は頭を振った。

「律人は覚えてないのか、これ。いいや、忘れてくれ。それより、その先生のことなんだけど――」

 そのとき、始業開始のチャイムが鳴り響いた。同時に廊下で待機していた担任が、扉を開けて入ってくる。東郷は軽く舌打ちを漏らすと、その他の生徒に紛れて教室を去り、僕は取り残された。

 生徒が交換する雑踏の中。代わりに一人でゆっくり考える時間が与えられる。

 彼の反応が意味するのは、美玲という人は僕の知り合いでもあること。そして僕がそれを忘れていること。

 話が終わり残念だと思うと同時に、ほっとしている気持ちもあった。机の下で握った手の平に、じっとりと汗をかいている。

 致命的な欠陥が一つあった。

 ――僕には記憶がなかった。