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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上1-1

まやかしの月 創作小説

1-1.Roof Atelier:屋上のアトリエ

 五月二十三日、月曜日。

 降り出した雨は次第に勢いを増し、窓ガラスを叩く風景は灰色に濁っている。

 間に合うだろうか。息を切らして階段を駆け上がる。そして屋上の踊り場に立ったとき、扉が開いた。

 美しい少女が立っていた。

 一目見た途端、吸い寄せられるような、端整な容姿をしていた。色が白く、頬は紅に色づいている。長い黒髪はゆるやかに背中の上に下りていた。

 黒いセーラー服は水が染みこんで貼り付き、リノリウムの床に滴を落としていた。雨に降られてしまったようだ。濡れたことで不機嫌そうに細められた目は、彼女の周りに硝子のような冷たい、近寄り難い壁を形成している。

「また来たのね、あなた。どういう風の吹き回しかしら」歓迎とは程遠い調子だ。

「雨降ってきたから、心配になって」

「瑞山先生に頼まれたんでしょう」

「彼も心配してらしたよ」

 僕はエナメルのスポーツバッグを床に落とし、タオルを差し出した。

「これで拭きなよ」

「必要ないわ」

「でも、風邪ひくよ」

 そう言うと、彼女はしぶしぶといった様子でタオルを受け取る。僕はほっとした。

 彼女に与えられたのは、ロキという名前だけだった。

 それは北欧神話の美しくて賢い、だけど困るくらいに気まぐれな火と悪の神。

 僕は彼女の横を抜け、扉を開く。『立入禁止』という張り紙を見た。

 屋上には、イーゼルやパレットを置いた机が、雨にみじめったらしく降られていた。彼女はいつも隅っこで絵を描いていて、飛び散った黒がそこだけ汚していた。何本もの筆の毛は元々白かったと見て取れるのに、黒い絵の具がこびりついて灰色に染まっていた。絵の具の箱には一応十二色の油絵の具が入っているが、有彩色は一度も使われていない。白と黒だけが減っている。地面には油絵のパレットや新聞紙が散乱し、最後までしぼりだされた黒の絵の具のチューブが歪に曲がっていた。

 ここは屋上のアトリエだ。

 別に彼女がそんな整頓下手というわけではない。この散らかった状態は、彼女がいかに絵画に熱中しているのかを雄弁に物語っていた。

 彼女は屋上でずっと絵を描いていたのだ。しかし急に雨が降り出してきて、この道具類を片付けることも出来ず、案の定ここまで濡れてしまったようだった。かろうじて描いていた絵だけは濡れないように運んだらしい。彼女の足元の壁に立てかけてあるのがそれだ。

 黒一面の絵だった。

 ……いつか豊かな色彩が花開いてほしいと思う。

 風が吹いてきた。本格的に天気が悪くなってきて、気温も低い。

 唸る風が傘をさらおうと試みる。回収しきれなかった道具を運んでいると、屋内から、呆れたように少女が呟いた。水を吸った髪をタオルで押さえている。

「よくこんなもの持ってるわね。普通はそこまで持ってないわよ」

「普通じゃないの?」

 僕はその言葉に何故か、強迫観念のように焦りを覚えた。

 僕は、常に自分が普通であることを確認しなければ不安だ。

 確かに、鞄が重そうだねとはよく言われるが。しかし事態に備えて色々あったほうがいいんじゃないかと思う。

 全ての道具を引き上げ終えてから、ずっと気になっていた問いを投げかけた。

 深呼吸して、心の準備を整えてから。

「ねえ。君はどうして瑞山先生を刺したの?」

 ――ロキは、前科持ちだ。

 過去に瑞山先生を包丁で刺した。

 口にした瞬間、彼女が豹変した。――目を細めて美しくも壮絶な笑みを浮かべる。

「言っておくけど、反省なんてしてないわよ」

 何故か僕の顔に浮かんだのは苦笑だった。

 そんなことを言いながらも、タオルで髪を拭いている動作は至って普通の女子高生だったので。

 もっと怖い人だと思っていた。

「私に関わると破滅するわ」

 そういう言葉さえ、上手く働かない脅しのように聞こえる。

「あなたは兄さんと、兄さんに騙された善意の人たちに陥れられることになるわ。そうなりたくなかったら、誰も信じないことね」

「信じることでしか乗り越えられないこともあると思うよ」

「あなたが私を信じていないじゃない」

 否定は出来ない。僕は反論する。

「他の人を疑えって言って、自分だけを信じてって言うのは、都合がいいんじゃないかな。それとも、露綺さんが嘘をついてたりして」

 ロキを信じたとして、そもそも彼女が嘘つきだったとしたら。

 そんな相手のことだけを信じ、その他を疑えというのは、さすがの僕でも暴挙に等しいと思われた。

 やがてロキは、挑戦的な笑みを作った。

「じゃあ訊ねようかしら。何が起きても、私を一番に信じてくれる?」

 何も言えない僕に、彼女は更に問いを重ねる。

「私だけを信じてくれる?」

「どうだろう……」

 拗ねたような口調が可愛くて、僕は少し口調を緩めた。

「場合による。だって、君だって嘘をつくときもあるだろうし。騙されるのは嫌だなあ。それに、そんなのは信頼とかとは違うよ」

 約束という形で縛りつけるんじゃなくて、そういうのは個々の思いやりだと思っている。

「この際はっきり言うわ、無責任ね」

 無愛想にしれっと言う。

 彼女との出会いは数日前に溯る。

 僕の学校に教育実習生がやってきた二週間。今までの人生の中で、恐らく最も長い十日間と二日に、僕は思いもかけず自身の過去と向き合うことになる。